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「受託収賄」型政治ではないのか

1月29日(金)付産経新聞・正論欄に『「受託収賄」型政治ではないのか』が掲載されました。
紙面に合わせて字数調整がされる前の原文をご紹介します。                                     

~ 国会を開かれた自由な議論の場に ~
 国会が始まった。「政治とカネ」の問題もあるが、民主党政権の最大の問題は、開かれた自由な議論がまったくないということだ。あるのは不明瞭な政策決定プロセスと利益誘導型受託収賄政治の横行、そして選挙に勝つことがすべてだとする政局至上主義の政治だ。しかし、民主主義というのは選挙に勝った多数派が、数に乗じて好き勝手にしていいということではない。国会は国のあり方を議論する場であり、選挙は、国民の代表として国会で議論をする人を選ぶ営みである。選挙に勝てば議論はいらないというのは民主主義の死である。
 政治家が党のためでなく、日本のために働いていることを思い起こせば、国会においては党派を超えた真剣な議論、本質的な議論こそが求められているのではないか。
 ただ国会に議論がないのは何も民主党政権に始まったことではない。確かに議論に似たものとして国会質疑はあるが、これは議論ではない。与党の質問はおおむね台本があるようなもので、それを大きく踏みはずすことはないし、野党の質問は議案に関係のないことを問いただし、答えるほうは何とかごまかすことに終始している。これで日本をどうするかというような重要なことを民主的に決めているといえるのだろうかと疑問に思ってきた。しかし、自民党政権の時代には、少なくとも党内での開かれた自由な議論はあった。皇室典範改正も人権擁護法案も離婚後300日規定も、自民党の部会での真剣で活発な議論の結果、間違った方向に行くのが食い止められた。もちろん部会で議論するときは、一年生も党の執行部もなく、自分が正しいと信じることのために発言することができた。
 ところが民主党政権になってから、民主党は部会制度をなくし、政治主導という名のもとで、およそ議論なしで独断的に政策決定がなされている。
 昨年末に平成22年度の予算案が提示されたが、目を疑う光景があった。小沢幹事長が側近とともに大挙して官邸に乗り込んで予算についての党の意向を総理に伝えた。すると、一夜にしてガソリンの暫定税率が維持されることに決まったのだ。暫定税率廃止といえば、平成20年の1月、民主党が山岡国対委員長の司令塔のもとで「ガソリン値下げ隊」という派手なパフォーマンスまで行って、委員会審議をつぶし、その後、衆参議長あっせんに従い、3月までに結論をだすと約束して、つなぎ法案を取り下げさせた。ところが約束は反故にされて、その結果、4月にいったんガソリンの値段が下がり、5月にまた上がるという国民生活の混乱を招いた。そして昨年夏の総選挙では民主党マニュフェストの看板政策に暫定税率の廃止をうたい、念願の政権交代を実現させた。
 小沢幹事長は、税率維持の理由について「厳しい財政状況で子ども手当てなどの政策を実現するためのやむを得ない措置だった」というが、選挙中「無駄遣いをやめて」「予算を組み替えて」10兆円、20兆円を捻出するから、日本の防衛費よりも大きい子ども手当ての財源についても「心配いただくに及びません」と明言していた。心配するはずのなかった財源はどうなったのか、これは「消えた年金」ならぬ「消えた財源」であり、この莫大な「消えた財源」の説明なくして民主党政権の正当性はないだろう。

 さらに「政治主導」というが、暫定税率についての一夜にしての政策転換をみてもわかるように、民主党に政治を主導している「政治家」は一人しかいない。あとは霞ヶ関の官僚が国会議員になり民主党の官僚になったようなものだ。しかも、その主導する政治というものが「公」ではなく、「利害」で決められている。選挙で自民党を支持した団体には徹底して冷たい。土地改良の団体は夏の参議院選で自民党公認の候補を立てることにしたとたんに、予算を半分に削られた。民主党に票を差し出す団体の陳情だけが幹事長室を通じて実現されていく。これを受託収賄型政治といわずしてなんというのだろうか。ただ、この手法は古い自民党体質を極限まで推し進めたものであり、自民党の再生のために決別すべきものなのだ。
 今、求められているのは、支持団体への利益誘導型政治から脱却して、国民全体の利益を目指す政治をすることだ。何が日本の経済を回復させるために必要か、何が日本の農業を強くするのか、どうすればもっと日本を明るくし、国民を幸せにできるのかを党派を超えて語り合い、政策をきめていく本物の議会政治だ。外国人地方参政権付与について、民主党はこの通常国会での成立を目指しているというが、違憲の疑いすらあるこの問題について、民主党内で議論がなされた形跡はない。わが国のあり方に重大な影響を及ぼし、いったん与えれば二度と剥奪しにくい外国人参政権について、与党内に議論がないことは、わが国に民主主義が全く機能していないことを意味する。

 翻って、わが党に問われているのは闘う姿勢だ。何のために闘うのか。政局のためでなく、選挙のためでなく、民主党政治により家族とふるさと、そして国柄が壊れてしまわないよう、この国を守るために闘う集団に生まれかわらなければならない。
 国民におもねるバラマキ政治から、国民とともにつらくとも正しい政治を、利益を期待して支援する団体のためでなく、一票の見返りがよりよい日本の将来であると信じるまじめに生きる国民のために、民主党の非をあげつらうのではなく、開かれた自由な議論によって新しい日本を創造するために闘う、真の国民政党になるのだ。

公務員改革論議に欠けるもの

2月20日付け産経新聞・正論欄で、公務員改革について私の考えを述べました。

                             

≪事実無根の濡れ衣批判≫
 政治がポピュリズムに毒されていないか。政治家が世論に迎合し、マスコミからの批判を恐れて言うべきことを言わず、反論すべきことを反論しないようでは、国は危うい。

 いま話題の公務員の「天下り」(各府省による再就職のあっせん)「わたり」(2回目以降の天下り)について昨年末、限定的な条件で最長3年間だけ認めた政令がいわれなき非難をあびた。麻生総理は政令はあっても実際には承認しないと答弁し、さらに、今年中に政令上も禁止すると明言した。
 総理の判断をとやかく言うつもりはない。だが、その前提として、「法律で禁止された天下りやわたりをこっそり認める政令をつくった」などという全く事実無根の濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)は、きっぱりと晴らすべきである。
 安倍政権下の平成19年、改正国家公務員法が成立し、各府省のあっせんによる天下りなどを禁止した。あっせんは新設する「官民人材交流センター」に一本化する。ただし3年間(正確には3年以内で政令で定める日まで)の移行期間に限っては、各府省のあっせんをごく例外的な場合に認めることとした(改正国公法附則5条)。

                             

≪天下り根絶の本質論は≫
 これはいわば車が急ブレーキをかけて止まるまでの“制動距離”のようなものである。なお、総理の承認権限は新設する監視委員会に委任する予定であったが、監視委員会の委員が野党の不同意で決まらなかった。委員会が設立されるまでの間は総理自身が承認することとされたが、これとて何の違法性もない。
 なぜ、このいわれなき中傷に対し反論しないのか。野党ならともかく自民党内部で政令を批判し、世論迎合の意見ばかりが噴出していることに情けない気持ちでいっぱいになった。いったい、だれがあの改正国公法をつくったのだ、と。
 問題は、天下り根絶がなぜ必要なのかという本質論が欠けていることだ。それは官民の癒着や行政のゆがみ(業界偏重)をなくすことだ。
 許認可権限の及ぶ業界への再就職が念頭にあれば、どうしても業界に甘くなり、消費者保護、国民目線の行政が劣化する。それが、たとえば「消費者庁」という役所を新たにつくらなければならなくなった理由だろう。国民の行政不信、ひいては政治不信を払拭(ふっしょく)するには、行政の中立公正さを損なう天下りは根絶しなければならない。
 しかし、民主党が言うように、天下り根絶で12・6兆円の予算削減ができるというのは真っ赤な嘘(うそ)である。天下り職員のいる公益法人などの公的事業をすべて廃止するという絵空事を前提とした数字である。天下り職員の人件費はその1%ほどにすぎない。

 ただ、そのような嘘がまかり通るのも天下りがあるからだ。これを根絶することで、増えゆく社会保障費を賄う消費税増税など国民負担への拒絶反応は緩和されるはずだ。
 従来、退職後2年間は許認可の及ぶ営利企業への再就職は自粛とされた。今回、官民人材交流センターへの一元化で2年の縛りがなくなり、特殊技能をもつ官僚はセンターを通じていつでもあっせんを受けられる。とすれば、官民癒着によるゆがみを正すことはできない。

                             

≪真の公僕集団をつくれ≫
 さらに、禁止される天下りには、あっせんによらない自分の才覚で見つける再就職は含まないから、その意味でも官民癒着はなくならない。やはり、在職期間の長さに応じた一定期間はいかなるルートであれ、許認可の及ぶ業界などへの再就職を禁止すべきである。
 ただし、肩たたきで役所を追い出されながら、許認可の及ぶ先への再就職も事実上禁止され路頭に迷うということではいけない。そんな不安定な職場に有為の人材が集まることは期待し難く、それでは角を矯めて牛を殺す結果になる。定年までは働けることにし、ケースによって給料の据え置きや引き下げにより人件費を抑えることを考えるべきである。
 それでも、一時的には人件費の総額は増加するだろう。だが、しかし長期的視野で考えれば、これまで天下りを受け入れさせられた民間企業や公益法人などの人件費は削減できる。国民トータルとしての負担は確実に軽減されるはずだ。

 いま一度、公務員制度改革の本旨は何かという原点に立ち戻るべきだ。国民の行政への信頼を回復するための議論をしなければ、国家の行く末を誤ることになる。国家有為の人材が集い、目を輝かせて国益と国民の幸福のために滅私奉公、切磋琢磨(せっさたくま)する公僕の集団をいかにつくるか。これができれば官民人材交流センターも消費者庁も基本的には必要ない。

国籍法改正案について

11月27日付け産経新聞・正論欄に執筆致しました。

国籍付与は国会の権限 -DNA鑑定は慎重に-

 だれに国籍を与えるか、だれを国民として認めるか、これは国にとって基本的かつ重大な問題である。だからこそ憲法10条で国権の最高機関である立法府にその広い裁量が認められている。もちろん、国民は平等に扱わなければならないが、それは本来国民になってからの問題で、だれを国民と認めるかは立法の裁量であり、主権の問題なのである。
 
 現在の国籍法の3条1項を最高裁は6月4日違憲と判断し、この判決を受けて改正案が衆議院を通過し参議院で審議されている。現在の国籍法は、日本人の父が出生後認知した子(母親は外国人)は父母が結婚(準正)してはじめて日本国籍を認め、単に父が認知したにすぎない場合には日本国籍を認めていない。6月4日、最高裁はこの規定が憲法14条の平等の原則に違反し違憲だとした。さらに国籍法3条1項が「父母の婚姻」を要件としているところを無効として、子に日本国籍を与えた。この判決は二重の意味で問題がある。

 まず、最高裁が違憲とした理由である この規定ができた昭和59年から今までの間の我が国の家族のありかたの変化は、法律を違憲とするほどの変化とはいえない。さらに最高裁が単に違憲を宣言したにとどまらず、勝手に国籍法3条1項を読み替えて、国籍を付与してしまったことは司法権の逸脱である。民主的背景を持たない裁判所による事実上の立法がなされてしまったのだから。
それでも最高裁判決なのである。憲法解釈の最高権威であり、違憲立法審査権をもっている最高裁が現在の国籍法を違憲と判断した以上、立法府はその判断を尊重しなければならない。しかし盲目的に従うのではなく、立法府の矜持を示して最高裁の判断を尊重しつつ、できるかぎりさまざまな場合を想定して慎重に審議し、国籍付与を立法府の裁量としたことを意味あることとすることが国会に求められている。
 
 今回の改正について多くの反対意見が寄せられた。そのほとんどが偽装認知の横行への不安からDNA鑑定を必須条件にせよというものである。偽装認知は全力で防がなければならないが、DNA鑑定を要件とするのは、日本の家族法制度に変容をきたすおそれがないか慎重に検討しなければならない。昨年自民党内で民法772条の300日規定が見直されようとしたときに、私はDNA鑑定を法制度にもちこむことの危険性を主張した(平成19年4月17日 本欄参照)。民法は親子関係=生物学的親子という考え方をとっておらず、法的親子関係は子の安全な成長を確保するための法制度であって、安易にDNA鑑定を取り入れることは、生物学的親子関係をすべてとする風潮につながりかねず、民法の家族法制度を根本から覆す結果になるおそれがあるからだ。これに対して国籍付与の前提としての認知にDNA鑑定を行うことは「血統主義」をとる我が国では当然であり、民法の親子関係に直接影響を与えるものではないと主張する人もいる。
しかし、仮に国籍付与の認知にDNA鑑定を要件とすれば、今までであれば、父の認知後父母が婚姻をして準正により当然に国籍を付与していた場合にもDNA鑑定を要件としなければ平仄が合わない。なぜなら最高裁は「父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得するか否かということは、子にとってはみずからの意思や努力によっては変えることのできない身分行為」であり、これによって区別することは憲法14条の差別だとしたのだから、認知しただけの非嫡出子にDNA鑑定を要件とするのであれば父母が結婚した嫡出子にもDNA鑑定を要件としなければ再度最高裁に憲法違反をいわれるおそれが大きいからだ。
さらには現行法で当然に国籍を付与する、日本人男性が「胎児認知」した場合にも、結婚している外国人母、日本人父の間に生まれた子にもDNA鑑定を要件としなければバランスが悪い。
しかし、父母が結婚している場合にまでDNA鑑定を要件とすることは、婚姻中に妻が懐胎した子を夫の子と推定している民法772条に真実の父を確定するためのDNA鑑定を持ち込まないとつじつまがあわなくなるおそれがある。
そもそも国籍法上の「血統主義」は子の出生時に母または父が日本国籍であることを要求するということであり、そこにいう「父」は生物学上の父ではなく法律上の親子関係の発生した父を指す。つまり「血統主義」だからDNA鑑定を義務付けるのが当然とはならないのである。 むしろ国籍付与の条件としての父子関係と民法上の父子関係とはちがうとして、国籍付与の場合にのみDNA鑑定を要件とするという考え方は、法的父子関係を複雑にし、理論上はありえても法制度として妥当とは言いがたい。
 DNA鑑定を要件とすることによる偽装の防止と民法の家族制度のあり方への影響は慎重に検討しなければならない。それゆえ衆議院の付帯決議には将来の課題として『父子関係の科学的確認を導入することの要否と当否について検討する』という文言が入れられた。現時点では届出の際に認知した日本人男性との面談を義務付け、母と知り合った経過を確認するなどして偽装認知でないことを調査するなど運用面での防止策を充実させる方途をしっかりと模索すべきである。   

空港等への外資規制問題について5月2日付け毎日新聞に書きました。新聞では字数に限りがありましたので割愛していないものをこちらに掲載させていただきます。

 国の安全確保やエネルギー政策からそもそも無制限にオープンであることになじまない分野がある。空港や電気事業もそのひとつだ。諸外国を眺めても空港や原子力、電気事業を無制限にオープンにする国は少ない。たとえ民営化しても、株の多くを政府や公的機関が保有し外資規制をするのが一般だ。今回政府は、TCIファンド が電源開発株式会社(Jパワー)の株式を20%まで取得しようとした届出について、外為法に基づく中止勧告を出した。当然のことだが、関係者の勇気と決断には敬意を表する。
Jパワーは送電設備や原子力発電所など、わが国の電力の安定供給をになう企業であり、代替が不可能な独占的企業である。そこへTCIのような(短期)収益のみを重視する外国ファンドに一定額以上直接投資させるのは危険である。 特に原子力発電はわが国総電力の3分の1を占める基幹電源であり、現在Jパワーはわが国核燃料サイクルの要となる大間原子力発電所を計画している。そこでのMOX燃料(非核保有国で使用済燃料を再処理してプルトニウムを抽出しMOX燃料を製造できるのはわが国だけ)よりも輸入ウラン燃料の利用の方が圧倒的に低コストであるから、外資にはこのような長期の視点での設備投資への理解は期待しがたい。
今回の中止勧告について、「資本鎖国」というイメージ(朝日新聞)とか「日本の閉鎖性に懸念」(日経新聞)と批判する向きもあるが、OECDでも認められた歴とした国際的共通ルールに則ったものであり、世界に恥じることはないし、そこまで「オープン」にこだわる理由はない。
空港の外資規制への反対も、2006年3月に出された政府方針「2010年に対日直接投資残高をGDP比で倍増となる5%程度とする」に逆行し日本の市場が閉鎖的だというメッセージになるという言い方がされた。
しかし、投資は促進されたが安全は脅かされたというのでは本末転倒である。対日直接投資を促進するのはそれが日本の国益にかなうからであるはずで、国益を犠牲にしてまで対日投資を倍増させなければならない理由などどこにもない。もともと期限、数値を決めて対日投資を促進する意味もない。日本は外国投資がなければインフラ整備できないような発展途上国ではない。1500兆円ともいわれる国内個人金融資産が国内投資にまわるような努力と工夫をすべきである。外資が投資しその圧力がなければ企業の経営合理化が進まないというのもおかしな議論である。
また、外資が悪くて国内資本がよいというのは差別だというが、国益を享受する国内資本(裏返せば国が滅びれば国内資本も滅びる)の方が利益だけでなく国益のことを考えて行動するだろうし、悪意の国内資本からは外資規制とは違った方法で防御する必要がある。悪意の国内資本に効果がないから外資規制は意味が無いというのは詭弁であり論理の飛躍である。現に外資は国内資本に比べて犯罪捜査もしにくいし、それを外国に依存できると考えるのは平和ボケだ。
この外資規制の問題は、そもそも完全民営化が正しかったのかという反省に立って議論しなければならない。民営化信仰に近い考えがまかり通っているが、民営化は、経営効率化、財政健全化のために有効だが、かつての八幡製鉄所や富岡製糸場のような、そもそも民営であるべき「工場」の民営化と国の安全保障に直結する空港やエネルギー基幹設備である電気事業の民営化を同列に考えてはならない。民営化するにしても、資本の論理だけではない長期的な国益その他の観点が必要な事業については、政府が一定数の株を保有し続けるなど別の考慮があるべきで、要するに外資規制は完全民営化というボタンの掛け違いの次善の策なのである。

映画「靖国」の助成金問題について産経新聞正論に書きました。新聞では字数に限りがありましたので割愛していないものをこちらに掲載させていただきます。

 表現の自由、言論の自由が保障されているわが国で、どのような政治的、宗教的宣伝意図のある映画を制作し公開しようと自由である。日本は政治的圧力により映画の上映を禁止し、書物を発禁にするような非民主主義国家ではない。
私と若手自民党議員の「伝統と創造の会」(「伝創会」)は、映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)自体ではなく、そこに文化庁所管の日本芸術文化振興会が750万円の公的助成金を出していること、その一点を問題にした。
発端は「反日映画『靖国』は日本の助成金750万円で作られた」という平成昨年12月20日号の週刊新潮の記事だった。この映画を試写会で観た複数の人が映画のなかに弁護士時代の私が映っていると教えてくれた。もちろん私はこの映画で観客の眼にさらされることを同意したことはない。今年の2月に伝創会で助成金支出の妥当性を検討することになり、文化庁に上映をお願いした。当初文化庁からは映画フィルムを借りて上映するという話があり、日時場所も設定したが、直前に制作会社が一部の政治家だけにみせることはできないというので、すべての国会議員向けの試写会になった。一部のマスコミに歪曲されて報道されたような私が「事前の(公開前)試写を求めた」という事実は断じてない。公開前かどうかは私にとって何の意味もなく、映画の「公開」について問題にする意図は全くなかったし、今もない。  
 結論からいって同振興会が助成金を出したのは妥当ではない。①日本映画である、②政治的、宗教的宣伝意図がない、という助成の要件を満たしていないからだ。まずこの映画は日本映画とはいえない。同振興会の平成20年度芸術文化振興基金助成金募集案内によれば「日本映画とは、日本国民、日本に永住を許可された者又は日本の法令により設立された法人により製作された映画をいう。ただし、外国の制作者との共同制作の映画については振興会が著作権の帰属等について総合的に検討して、日本映画と認めたもの」としている。
映画「靖国」の制作会社は日本法により設立されてはいるが、取締役はすべて(名前からして)中国人である。この会社は、平成5年に中国中央テレビの日本での総代理として設立されたという。映画の共同制作者は北京映画学院青年電影製作所と北京中坤影視制作有限公司である。製作総指揮者、監督、プロデューサーはすべて中国人である。このような映画が日本映画といえるだろうか。ちなみに政治資金規正法では、日本法人であっても外国人が出資の過半を有する会社からは寄付を受けてはいけない扱いが原則である。
 さらに映画「靖国」は、政治的存在である靖国神社をテーマとして扱っており、そもそもが政治的宣伝である。小泉総理の靖国神社参拝をめぐっては、国内外で議論があった。特に日中関係は小泉総理の参拝をめぐって首脳会談ができなくなるほど政治問題化した。
映画「靖国」のメインキャストは小泉総理と靖国神社を訴えていた裁判の原告らである。私も弁護士として、靖国神社の応援団としてその裁判にかかわった。その裁判で、原告らは一貫して「靖国神社は国民を死ねば神になるとだまして、侵略戦争に赴かせ、天皇のために死ぬ国民をつくるための装置であった」と主張していた。映画「靖国」からは同様のメッセージが強く感じられる。映画の最後でいわゆる「南京大虐殺」にまつわるとされる真偽不明の写真が多数映し出され、その合間に靖国神社に参拝される若かりし日の昭和天皇のお姿や当時の国民の様子などを織り交ぜ、巧みにそのメッセージを伝えている。
いわゆる「南京大虐殺」の象徴とされる百人斬り競争―私は、戦犯として処刑された少尉の遺族が、百人斬り競争は創作であり虚偽であることを理由に提起した裁判の代理人もつとめた。結論は遺族らに対する人格権侵害は認められなかったが、判決理由の中で「百人斬りの内容を信用することが出来ず甚だ疑わしい」とされた。ところが映画「靖国」では、この百人斬り競争の新聞記事を紹介し、「靖国刀匠」をクローズアップすることにより、日本軍人が日本刀で残虐行為を行ったというメッセージを伝えている。
 これらを総合的に判断すると、映画「靖国」が、「日本映画」であり「政治的宣伝意図がない」とし、助成金を支出したことに妥当性はない。なお、この映画には肖像権侵害や靖国刀が靖国神社のご神体だという虚偽の事実の流布など法的にも問題があることが有村治子参議院議員の国会質疑で明らかになった。 
 私たちが文化庁に上映を依頼したとき、映画は既に完成し国内外で試写会が行われていた。配給会社によれば、釜山映画祭(韓国)、サンダンス映画祭(米国)、ベルリン映画祭(ドイツ)等の国際映画祭で高い評価を得たという。
私は弁護士出身の政治家として、民主政の根幹である表現の自由を誰よりも大切に考えている。だからこそ人権擁護法案にも反対の論陣を張っているのだ。今回の上映の要請が「事前検閲であり表現の自由に対する制約」という捉え方をされ、そのような誤った報道をされたことは、私の意図をまったく歪曲したものであり、許し難い。民主政の根幹である表現の自由によって私の政治家としての発言の自由を規制しようという言論があることにも憤りを感じる。外国による政治的宣伝の要素のある映画への助成は極力慎重に行われる必要があるだろう。表現や言論は自由であり、最大限尊重されなくてはならないのは当然だが、そのことを理由に税金の使われ方の妥当性を検証する政治家の言論の自由を封殺しようとすることは背理である。

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